入間市の囃子連(その2)

入間市の囃子連(その2)
※表記順はアイウエオ順です。


《 高倉郷土芸能保存会 》

囃子の流派は正確には不詳だが江戸囃子(神田若狭流)といわれる。嘉永年間頃に始まったとされる。
明治初期には川越市新宿の協力で盛んになったといわれる。置き屋台1基、山車(屋台)1台、太鼓ヤグラ
1台を有する。近隣各地に囃子を伝授しており、弟子が多い。
若狭流とは別に祇園囃子も太鼓ヤグラで演奏されている。置き屋台は昭和4年製作。現存する台座の部材から製作当初は車輪がついていたようだ。
現在、車輪がなく、囃子台部分のみで格納庫からレールを設置し曳きだされる。
以前は人力で担ぎ出していたが昭和3、40年頃にレール方式となった。その前には、同市黒須(四区舞子連)にあった山車の車輪を借りて曳きまわしたという。
また、逆に黒須(四区舞子連)へ屋台部分を貸し出していたこともあった。



《 奈賀町はやし連 》

囃子の流派は江戸神田囃子隠岐流。
昭和5年に囃子連を結成。戦時中は中断するが、昭和22年に再結成。
昭和23年に同市仏子より伝授されたらしい。山車(屋台)は2台あり、大きい方は17年くらい前の作、小さいほうの山車(屋台)は大きい山車(屋台)の製作から2年後に製作されたもので、同市の宮大工、田代甲平氏の作。
この2台より以前に同市仏子から譲られた山車(屋台)があったが、狭山市下諏訪へ譲渡され、現存。



《 西三ツ木囃子連 》

囃子の流派は不明。江戸末期には祭りがあったらしいが、囃子は明治初期頃から盛んになったらしい。戦争で一時中断。
昭和23年に復活。昭和35年頃に中断するが昭和49年に復活した。
足踊りは昭和49年頃、新久より伝授されたという。山車(屋台)は明治頃の作とされる。唐破風付きの屋根を持つ屋台型の山車で、
4つ車。前輪に家事が付く。太鼓ヤグラもあり、祇園囃子が演奏される。



《 二本木囃子保存会 》

囃子の流派は新囃子桜川流。
戦争で長く中断していたが昭和56年に再結成。
山車は昭和63年の製作。



《 仏子囃子保存会 》

囃子の流派は江戸神田囃子隠岐流。
入間市新久より伝授。以前は青友会を名乗り、昭和40年に仏子囃子保存会を発足。
山車は3台あり、大きい山車(屋台)は昭和の初め頃(恐らく昭和12年頃)の作で作者は諸井氏。彫刻師は池田信之。
東京深川より材料を購入し製作された。
この前にも山車(屋台)があったが新山車製作にあたり、豊岡の
ほうに譲ったという(現在は狭山市下諏訪所有)。



《 坊囃子連 》

囃子の流派は安達流。
戦前に囃子があったが、流派は不明。戦中の中断後、戦後に浅草で囃子を見聞きして覚え、地元に伝えたという。その後中断し、昭和41,2年頃に復活。
平成になり、流派が安達流となった。昔は山車があったが、いつ頃かは分からないが無くなってしまった。人形はなく、屋台型の山車であったようだ。
その後はトラックに太鼓をのせて地区内をまわった。
現在は平成10年くらいに製作された掛け屋台で演奏が行われる。



《 四区舞子連(現在の宮前町、鍵山両地区)》

囃子の流派は入間市高倉から習ったとされることから江戸囃子(神田若狭流)であったと思われる。現在は後継者不足から休止中。
囃子の始まりは戦後の昭和26,7年とされる。それ以前は高倉より囃子連を呼んで演奏してもらっていたという。
山車は囃子連結成前には屋台型の山車が地元のお寺にあったらしいが火事で燃えてしまったといわれる。
幸い、車輪だけはお寺の縁の下にあったため難をのがれた。この車輪を高倉の山車(屋台)の囃子台より上を借り受けて取り付け、曳き回したと言う(高倉では車輪がついておらず、置き屋台とされていた)。その後、後継者が少なくなり、昭和37,8年頃で活動を休止。

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